東日本大震災 被災状況
<被災者が見た津波 =岩手県釜石市= >

 私は地震の時に、岩手県釜石市ののぞみ病院の5階(父が入院していたため)にいました。
 午後2時50分頃、強い地震が五分位続きました。

 3時頃、最初に川津波が見え、その白い波が4回ほど往復した後、大きい津波が襲ってきました。
 [オカムラ(市街の手前にある大きな工場)まで津波がきた!]と声がし、ベランダに出て、皆、叫びました(早く逃げろ、早く上がれ) 津波は、簡単にアーケードを乗り越え、避難高台の薬師公園まで来、釜石市街地は水につかりました。

 病院の一階も襲われたので、隣接している薬師公園へ緊急用の橋を渡って行きました。薬師公園に逃げてきた人達は下を見るだけでした。

 この時3時半になったかならないか、、、
 防災無線が鳴りませんでした。後で地震で壊れてしまったためと知りました。何台もの消防車が、市街地をぐるぐる回り最後まで[早く高台に逃げろ]と呼びかけ、津波に呑み込まれました。誰も車から出て来ませんでした。たくさんの人、車が呑み込まれました。

 この短い時間の中で、釜石保育園の園児達は全員無事に避難してきていました。
 高台で、保育園の先生達は偉い、と誉められてました。地震の後、すぐに逃げた人達は助かりました。もちろん運が大きいです。でも避難の呼びかけを聞いても[今まで大丈夫だから、今度も大丈夫だよ][また、津波といっても50〜60センチだろう]と逃げなかった、と市役所の人が話してました。職場の上司が[大丈夫、逃げなくていい]と判断したばかりに、高台が近かったのに壊滅してしまったところ、など悲しい話しを聞きました。

 避難所となったのぞみ病院では、食料、水がなく寒かったです。津波で自家発電が壊れてしまってました。病院の職員の方たちは、一生懸命世話してくれました。携帯電話は地震直後から通じなかった。メールは、3時12分までできました。わずかなお菓子は子供たちに。水は少しずつ回し飲みでした。が、パニックもなくデマもなかった。皆、家族の安否を心配し、繰り返す強い余震の中で、お互い助け合い、ラジオのニュースを必死に聞き、ひたすら朝を待ちました。朝の薄明かりの市街地は、水がひいてましたが、音が全く聞こえない動かない街でした。
<津波被災地 =宮城県石巻市、気仙沼市 釜石市= >
 次の写真は、3月11日の東日本大震災の津波による被害を受けた宮城県石巻市、気仙沼市の様子を写したものです。
<石巻市>
<気仙沼市>
<釜石市 ○津波がきた時刻をさす壁時計 ○防波堤に乗りあげた貨物船>